project schedule


[studio]での活動は終了しました。
ご来場いただいたみなさん、どうもありがとうございました。

今後、吉原治良賞記念アート・プロジェクト2008では、これまでの[studio]等での活動を元にアーティストが最終計画書を作成し、それをもって審査員による2次選考が行われます。またアーティスト決定後に、別途コーディネーターの審査が行われます。
最終結果は、年明け頃に発表の予定です。

* mixiにもコミュ作ってみました!:吉原治良賞記念AP2008メンバー募集中です。

2007年8月28日

ほねっこ食べて・・・明日のレクチャー宣伝文。

山本握微、改メ、ら氏より明日のレクチャーの宣伝文が届きました。
明日、ぜひお越しくださいませ!

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 僕は毎日、朝起きて、ほねっこ食べて、芸術について考え、ぱーっとして、ほねっこ食べて、芸術について考え、あくびして、ほねっこ食べて、芸術について考え、お出かけして、ほねっこ食べて、芸術について考え、テレビ見て、ほねっこ食べて、芸術について考え、なんや今日疲れたなあー、と芸術について考る、といった生活を繰り返している。それくらい、芸術について考えているのだから、既に深い知見を会得していても良さそうなものだが、記憶力の悪い僕にとってその時間の大半は、忘れてしまったそれまでの思考を思い出すことに費やされ、目立った進歩はない。踏台昇降運動の如く。

 それはともかく、「芸術とは何か」を問い、解き、説くことは僕にとって魅力的なことだ。芸術作品を制作したり、鑑賞するよりも。ところが、意外にも世間はそうではないのか。場合によっては愚問と扱われたりもする。

 何故か。ほねっこ食べて、その理由を考えてみた。取り急ぎ思いついた3つ。

 芸術とひとくちに言っても、色々あるのが原因のひとつか。アーティストといっても、おいは造形、あちきは写真、といった具合に、何かしらのジャンルに所属している。それについて考えるだけで充分だ。造形も写真も、それだけで考えきれないほど、考えるべきことがある。そちらの方が、より具体的で有意義かもしれない。それに較べると、芸術についてのみの思考は抽象的過ぎる。

 芸術が高尚とされているのもそのひとつか。芸術が、本当に高尚かどうか、これは大いに考えるべき問題で、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。最近、ほねっこ食べて僕が思うところ、これまで芸術は高尚ではない派だったが、高尚派に転向しつつある。でもまあ、真実はわからない。ただ、何故か芸術は高尚であると一般的に認知されている。俺は高尚だぜ、という言説で芸術を高尚とするのはいいのだけれど、ちょっとイラつくのは「僕のやることは芸術なんて大層なものではなく……」という自分を謙虚な文脈に置くために芸術を高尚に祭り上げる、というパターンだ(なので、芸術は低俗、と言う人は、自分の表現を芸術と言うので、高尚派と本質的に何ら変わりは無い)。話は逸れたが、高尚ゆえに「芸術とは何か」という問いは、忌避されやすい。

 あと、高尚ともちょっと関連しているのだが、芸術は、自然にやるってのが、ひとつの倫理とされていることだ。作為をみだりに匂わせてはならない。気付いたら絵を描いてました、というような。僕が「普通芸術」って言葉を使うと、「ええ、芸術は普通ですとも。私にとって表現は必然であり、ごく普通のことです」と得意そうに返す手合いがいる。こうした連中は、「芸術とは何か」について積極的に問おうとはしない。僕は決してそうした意見に反対しているわけでもなく、確かに芸術は自然にやるべきものかもしれない。ただ、そうではないかもしれない。

 何の話だったかな。ほねっこ食べて、そうそう、「芸術とは何か」という問いは、何故世間ではそんなに発せられないのか、その理由だ。そういうことかもしれない。いやいや、僕が知らないだけで、巷は芸術とは何かという話題で持ちきりかもしれない。

 さて、だからこそ、レクチャーしなくちゃ。3回目の講師は、メディア・アーティストの藤井光さん。藤井さんのプロフィールについては、吉原治良賞公式サイトなどでご確認ください。

 まず、藤井さんに「メディア・アート」とは何かを、海外の事例、及び藤井さん自身の作品を紹介していただいた上で、講義してもらいます。日本で、メディアアートというと単に、コンピューターやモニターなど、かつての絵筆や写真機に比べて新しい技術や機材を用いた表現、という風に僕も解釈していましたが、本当はそれだけじゃないみたい。
 続く後半では、いよいよ「アート」とは何かに迫ります。藤井さんの講義に、僕が抗議する形で進行するかもしれません。どういう風に話が落ち着くか、これはまだわかりません。ただ、キーワードは「を、も、作品とする」になるかもしれない。
 もうすぐ電車が会社の最寄り駅に着くから、ほねっこ食べて、妄想で言い切りますが、既に多種多様極まる現代の芸術を、しかし芸術作品たらしめているのは、飽くまでクラシカルな制度でしょう。わかりやすく言えば、どんな行為でも、それが美術館に陳列される絵画と思う。そのように扱う、批評する。どんな行為「を、も、作品とする」。
 「を、も、作品とする」はしかし、飽くまで、芸術家が嫌いそうな「制度」を地盤とする。「を、も、作品とする」でいいのかな。寧ろ戦略的に、そうした方がいいのかな。そんなことあたりから、藤井さんにお願いしたいと思います。

 もう、電車は着いて、駅のベンチ。会社へ戻ります。とにかく、面白い話が聞けそうなので、是非ご来場くださいませ。

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